ゲーム全体の水準が上がることの是非
【CEDEC2016】アイドルたちをもっともっと可愛く! Cygamesクリエイターが『デレステ』開発・運営でみせた飽くなき追求 | Social Game Info
今更なんだという話ですが(去年の8月の記事)、ふとTLで見かけたので。
これに対する意見として、「水準を上げすぎるとユーザー側の目が肥えすぎて、従来水準のものが駄作呼ばわりされる、これはいかがなものか」というものでした。
まあこれに対して徒然と。
※ソシャゲの定義付があやふやで話を進行しますが、買い切りのゲームではないゲーム、と考えてもらえれば大丈夫です。DLCとか話し出すと話が無限に飛んでいくので割愛。
1.ソシャゲについてのスタンス
そもそも個人的にはソシャゲはそこまで好きなタイプのゲームではない、というか今でもそこまで「好き!ガチャ楽しい!」ってタイプではないです。課金もしないわけではないけど、基本はやらないスタンスです。
ソシャゲのことを語るのでソシャゲ歴を一応。デビューはゆずぱらで、きっかけはゆずソフトということだけ。そこからABOW、カコタマ、デレステ、ポケゴ、アイギス、FEHという感じで、今はデレステ、アイギス、FEHを適当に触ってる感じです。
結構やってんじゃねえか、って思うかもしれませんが、今やってる3本については、総課金額5万もいかないです。デレはサプチケ以外は10連1回、アイギスも育成パックと初心者パック以外は150石を2回くらいですね。基本リターンが確定するもの以外は相当基準をシビアに見てます。
ソシャゲガチユーザーってわけでもないですが、5年近くはやってるので一応歴史の一部を末端で見てきた、って感じです。
2.ソシャゲの水準の推移
さて冒頭のお話であるソシャゲの水準について。
ひと昔、いわゆるポチポチゲーがまだ跋扈していた時期の私的なイメージは下記のとおり。
(1)ゲーム性は二の次。いわゆるポチポチゲー。
(2)対してソーシャルな部分、ユーザー間の交流、対戦といったものは充実
対して現在に対比するとこんなイメージです。
(1)ゲーム性は結構練られた状態でリリース。
(2)ユーザー間の交流はフレンド的な部分のあいさつ等で友情ガチャのptがもらえる程度。場合によってはイベントの一時期以外はユーザー間の交流は皆無のゲームも。
少なくとも技術的な水準は上がってると思います。昔は結構濫造気味に次から次に登場していましたが、今は少なくとも話題に上るタイプのものは結構ゲームとして練られているなと思います。
背景としてはハードウェアの進化と普及、つまりスマホのスペックの上昇と普及は無関係ではないと考えています。出始めの時期はまだガラケーも一定割合いたので、その人たちを対象として見ざるを得ない、つまりスペックが低い方に合わせざるを得ない事情が運営側にもあったと思います。対して今はスマホが相当割合普及し、その端末は高スペック化しました。これは開発側でやれることが増えた、ゲームとして作りこむことができるようになったことを意味します。
ハードウェア周りの進化とゲームの水準が上がることが連動する流れはPCゲームが近いと考えます。
3、水準アップは自然な流れ
さて一般的に考えて、「システムが練られているゲームと汎用なゲーム、どちらがやりたいですか」「同じスペックのスマホで綺麗なグラフィックのゲームとそこまででもないゲーム、どちらがやりたいですか」という問いは、基本的には前者がやりたいという回答に集まると思います。別に渋谷の女子高生100人に聞こうが、秋葉原のオタク100人に聞こうが同じだと思います。
そうなると製作者側はより面白く、よりきれいなゲームを作ります。そうでないと限られたパイの中で人を集められないからです。そうなると従来の水準が従前と比較して劣った水準となり、その水準で作ったゲームは駄作と呼ばれてしまうかもしれません。
でもこれって自然な流れだと思います。この流れに対してどういった意味でいかがなものかと警鐘を鳴らしたのか掴み切れませんが、メインストリームになる以上は仕方のないことです。
4.この流れは「いかがなもの」なのか?
過剰なゲーム性要求により体力のない制作側の疲弊を心配しているのであれば、乱暴な言い方をすれば資本主義である以上は仕方がないかなとは思います。田舎に大規模小売店が進出して地元の商店街をシャッター街にしたように、大資本が市場を席捲することは自然な流れであるからです。
とはいえそれによりゲームの多様性が乏しくなることを危惧することは必要だとは思いますが。
とはいえ昔よりユーザー数がゲームとしての面白さに直結しないので、グラフィック面に力を入れられなくても、しっかりゲームとして作りこめば一定の評価は得られて、しっかり支えてくれるユーザーが付くと思います。それもポチポチゲー全盛期ではありえなかったことの一つだと思っています。
5.まとめ
ゲームとしての水準があがることは仕方がないことであるけど、それはユーザー側からしてみればより面白いゲームが増えることであり、いい流れだと思っています。経営側の体力問題とか、別にユーザー側で考えてあげるものではないと思っています。
補論.ゲームとしての面白さの変遷
4.についての補足です。
昔のソシャゲはその娯楽性を「ユーザー間の交流」に置いていたと思います。ゲームとしてのインターフェイスは最小限でかまわない、その代わり交流部分、特に対戦等を熱くさせよう、という考えです。
これはシステム周りを練らなくてもユーザーの維持と射幸性だけを考慮していればゲームの面白さをユーザー側に投げられる分、効率的ではあると思いますが、ハードウェアの制約からこの方式を取らざるを得ないという考え方もできます。
対して今はゲームの中身そのもので制作側は勝負しているところがあると思います。それは本論で述べたように、ゲームとして作りこめば一定の評価は得られて、しっかり支えてくれるユーザーが付くという考えであると思います。
逆にソーシャルな部分に力を入れすぎると、何らかの要因でユーザーが離れ始めると、芋づる式にユーザーが消えてゲームが瓦解する可能性があり、安定性に欠けるからではないかなと考えています。
以上